気付かせ屋 サンパチ

ここでは、ほぼつぶやき。

禁断の果実

ワンピースでは、最初から「悪魔の実」だと伝えています。

それを食べると能力は授かるが、海を泳げなくなると警告しています。

聖書でも冒頭で食べてはいけない実だと伝えています。

「食べてはいけない」

それは、食することではなく、脳に取り込んではいけない、信じてはいけないという意味です。

そんなこと誰でもわかることでしょう。

 

しかし、誰もわかっていません。

現時点でその警告に従って生きている人はいないに等しいでしょう。

私も然り。。。

わかっていながら、まだまだ従っていないのです。

それを「罪」と言います。

 

私たちは本来、思考を持ちません。持たなくても生きていけるのです。

本(過去)から知識を得たり、他者の考えを信じる必要は全くありません。

そんなことしなくても、その瞬間湧き上がってくるからです。

それほどまでに愛されているのです。

 

私たちが過去から学ぼうとし、未来を思うのは、禁断の果実を食べてしまったがためです。

人それぞれ能力を身につけ、あたかもそれが自分の天命のように生きています。

しかし、精神の海を泳ぐことは出来ないのです。

せいぜい海面でサーフィンする程度なのです。

 

そのことを少しだけ気づき、瞑想と名をつけて立ち止まった人はいました。

しかし、立ち止まって座っただけで、悪魔の手から離れることは出来ませんでした。

わざわざ立ち止まって座って時間を費やす必要なんてないからです。

「師の教え」は悪魔の囁きの伝承に過ぎません。

 

私たちはすでに食べてしまいました。

さまざまな知識(悪魔の知識)を身につけ、それを糧に生きています。

それはもやは絶望でしかありません。

頭の中にこびりつき、あたかも私自身だと名乗るこの知識たちを排泄する方法はないのか。。。

排泄する方法を生み出さなければ、悪魔を超えた新しい未来はないのです。

核融合で太陽を作ることより、月に人を送り込むことより、私にとっては大切な案件です。

 

悪魔に気づいてください

私たちが創造主の存在を感じるのは至難の技です。

自然界を強調したり、崇めたり、畏れたりする傾向がありますが、

自然界は創造主によって創造されたものですから創造主ではありません。

太陽や、月や、海や、川や、木や、草にいくら手を合わせても、

創造主に触れているわけではないのです。

それらとプラスチックや金属や石を比較するのも意味がありません。

全て創造主が創造したものですし、素材は全て同じだからです。

結局のところ、炭素、水素、窒素、、、物質なのです。

 

そしてそういった物質を創造主と同等にすることを、旧約聖書では「偶像」といっています。

神社、寺、仏像、お守り、それらはまさに偶像ですが、

それだけでなく、太陽、月、海、山、川、木、石、金属、、、

それらを神とする行為も偶像崇拝です。

 

人間と自然界は同じ世界の産物です。

ただ、旧約聖書の中では、人間は創造主をかたどって造られた「創造をもたらす存在」として万物の長とされていますので、自然界をコントロールする存在として大切にされてきたという経緯があります。

大切にされてきたということはとても深い話で、数人残してその他全て絶滅といったことも、数人は残されたのですから大切にされてきたと言えるのです。

 

では、私たちは何を崇めればいいのか。。。

今まで私たちが手を合わせてきたものや存在が偶像崇拝なら、何が神なのか。。

神という存在を拠り所にしたい私たちは常にそう考えてしまいがちです。

そこで、多くの方が迷い、もがき、苦しんでしまいます。

 

しかし私たちが創造主に触れるまでにしておかなくてはならないこと。

それは「悪魔に気づくこと」なのです。

悪魔を具体的に語るのは別の機会として、とりあえず創造主に反抗している存在であり、私たちを試し、堕落させ、それを告発する存在だという認識が必要です。

そういう認識をすれば自ずからどうすればいいか気づけるはずです。

 

私たちは図らずも悪魔に育てられてきました。

周りは全て悪魔なのです。

それを造ったのはもちろん創造主なのですが、それを運用しているのが悪魔なのです。

今、あなたの周りにあるもの、頭によぎるもの、その全てが悪魔の誘惑であり、試しです。

そこに気づいたとき、一瞬クラクラしますが、心に落ち着きが訪れるはずです。

自分が今存在していることに驚くのです。

 

モーセやイエスでさえ40日間断食しつつ、悪魔の誘惑と闘いました。

もちろんそれだけでは終わりません。全てが悪魔の世界ですから、自分が悪魔の誘惑に勝てたとしても、自分の目の前にいる人たちは全て悪魔の手下として忠誠を誓ったままです。

自分が悪魔の誘惑に勝った時点で四面楚歌に陥るのです。

残酷な話です。親は当然のことながら、妻子があれば妻子も、友人も、恩師も、悪魔に気づいていない人たちは全て悪魔の子と気づくのです。

だから、そこからの人生が一番苦しい。

巷では、神の存在を知った者として、キラキラ自分を宣伝したり、チヤホヤされてる姿を見ますが、その方は未だ悪魔の手下(本人は気づいていません)です。

何かの技を使って体を癒すような行為もほぼ、人を悪魔の世界にとどめておくための能力を授かっているだけ。

世の中をより良くしたい、人を助けたい、そういった一見素晴らしいとされる思想や行為も然りです。

 

そう、それに気づいたとき、絶望が訪れます。

でも、それでいいのです。

悪魔の存在に気づき、絶望する。

自分はなんて残酷なことをしてきたのか、なんて愚かだったのか、

どれだけの命を奪ってきたのか、なぜそれを良しとしてきたのか、

最悪だ、最低だ、、、、

それでいいのです。

 

悪魔に気づいてください。

目をそらさないでください。

 

祈っても無駄です。祈ろうが祈らまいが同じことです。

祈るくらいなら、気づいて、気づいた自分を褒めてください。

私たちはいかなる時も、いつなんどきも創造主の懐の中にいるのですから。

神の正体

前回、割礼について投稿してから、ひと月弱もの時間が流れていました。

その間、私は新約聖書を読み続け、聖書に関する動画を観たりして過ごしてきました。

そしてようやくヨハネの黙示録のページまで辿り着いたところです。

と言っても、聖書に関する理解については今後投稿していくこととして、

今日は、少しだけ「神の正体」について触れます。

 

これから先、情報の開示と言いながら、「宇宙」について報道されることが増えてくるでしょう。

そして人類を造ったのは誰か、つまり神の正体についても情報が溢れてくるはずです。

現在のところ、それは宇宙人。地球外生命体だということだと思いますが、宇宙人だからと言って姿形ある存在のイメージを膨らませることは誘導であると私は思います。

地球に我々がいるのだから他の星にも存在しているはずだとか、地球に住めなくなるから他の星に移住だとか、そういった内容の話が出てくればそれはビジネスの話だと考えるべきだという見方です。

 

私たちの本体は物質ではありません。もっと言えば、本来は肉体を持たないエネルギー的存在であるのですが、地球という星(この世界)は肉体を持つ世界といういわば異次元の世界の中で私たちは誕生した生命なので、宇宙的にとてもレアな存在なのです。

そんなレアな存在であるのは地球という星(この世界)だけで実現することであり、この世界を離れるということは本来の秩序に戻るということなので、私たちは必然的にエネルギーに戻ります。

ただし、エネルギーといっても個々の存在ではありません。集合体というような状態です。

 

この地球(この世界)にある何かのエネルギー(神)によって私たちもこの体を手にしました。

猿でも犬でも植物でもないこの肉体に成長する情報に宿ったのです。

それを奇跡だと言えば奇跡。

昆虫でもなく、魚でもなく、鳥でもなかったのですから、

そして人間であることが今のところありがたく思えるのですから、よかったと思える奇跡です。

聖書によると神は神自身に似せて人類を形どったとされています。

つまり、もともと他の生物になる予定はなかったということであり、

神は私たちと変わらない姿かたちをしているということです。

新約聖書によればその似姿が「ナザレのイエス」つまり「イエス・キリスト」なのだそうです。

 

しかし、旧約聖書によれば創世記にてまずこの世界を造った時、混沌の中でエネルギー(RUACH、RUAHA)が漂っていたとされています。

訳にも色々あるのでなんとなくの理解でいいと思っていますが、いずれにしてもイエスに似た人間のような肉体ある存在がパズルを組み立てるようにこの世界を造ったのではないのです。

神は「(宇宙で最初に現れた)エネルギー」だからです。

 

しかし、私たちはなかなかエネルギーを存在だと理解できません。

ヤハウェ=在る。と言われても、目に見えるものに置き換えなければ理解できません。

宇宙と言えば星や光や酸素やら二酸化炭素を想像しなければ実体として理解できません。仮に物質に置き換えて、宇宙人が目に見えないほど小さな微生物だと言っても理解できません。

くしくも私たちは物資的な情報を得ないかぎり宇宙を理解できないため、神も理解できないのです。

 

では改めて神とは何か。

それは今そこにある「エネルギー」です。

ただし現在そのエネルギーは混沌としているのです。

宇宙を最初に造ったエネルギーが大きく一つあるとして、今はそのエネルギーがさまざまに分離しているのです。

地球外生命体なるものを造ったエネルギーもあれば、地球人類を造ったエネルギーもある。

私個人は宇宙という物質空間は存在しないと思っています。

小さな頃からさまざまなメディアを通じて見たり聞いたりしてきた情報によって、その姿を認識するに至っていますが、地球そのものの姿さえ、実際はわかっていないと思っています。

映像は全て科学の進歩と同じスピードで発展し、私たちはそれを見て姿形を認識してきました。

そして見えないものはわからないと判断してきたのです。

元素記号で表してきた物質も、名前をつけてきたことによって認識しているだけで、実際はよくわかっていないのです。

よく分からないけど、そういったエネルギーが存在していることは確かだ!といってきたわけです。

 

私は宇宙はエネルギーだと言われたら理解できますが、物質的に捉えようとすると必ず辻褄が合わなくなります。全ての人が納得できる答えも見つかっていないはずです。そりゃそうでしょう。

先ほども書いた通り、私は宇宙の情報は全てビジネスだと捉えていますので、信じたくても理解できません。

人間を造ったのが宇宙人だと言われたら、宇宙人とするエネルギーだと変換します。それなら容易に理解できるのです。

だから、この先どんどん「情報開示」だと言って流れてくる宇宙人の情報は洗脳であるとすら思えるのです。

 

エネルギーはたくさん存在しています。

そこにはプラスとマイナスのように全く別の方向性を持つものも存在します。

つまり、私たちを造ったエネルギーにもさまざまなタイプが存在するのです。

例えば造ろうとするエネルギーの存在と、壊そうとするエネルギーの存在です。

この地球にはその全てが「在る」のであり、どちらのエネルギーに寄り添って生きるかは私たち次第なのです。

 

奇しくも私たちは目に見えることしか理解できなくなってしまったので、

造っているのか、壊しているのか区別ができなくなっています。

良かれと思って。。。それが全ての動機になってしまったのです。

それは「個」に目を向け始めたからです。

細分化して末端のエネルギーしか見なくなってしまったので、

しかも物質的なことしか認識できないので仕方がないのですが、

行動することは「自分ができる範囲」であっても、意識は「宇宙を創造したエネルギーの世界」に向けて広げていく必要があると感じます。

 

つまり、「神」とは私たち個々が意識するエネルギーでもあるのです。

それは八百万の神という意味ではありません。全てのものに神が宿っているということではなく、宇宙を造ったある一つのエネルギーのどこに意識を向けているかということで神は人によって変化するのです。いわば壊そうとするエネルギーです。

良いものを造ろうとしているようで、実は壊すことが目的でそれを造っているということを理解する必要があります。

 

信じるか信じないかはあなた次第なのではなく、

例えば創造か、破壊かどちらを意識するかがあなた次第なのです。

創造とは、ものを造るという発想ではなく、創造のエネルギーという視点です。ベクトルです。

神(ヤハウェ)を愛するということは、創造のエネルギーに意識を向けることであり、「信仰する」ということだと思います。

 

偶像崇拝がなぜ厳禁なのかと言えば、神を物質的に捉えているからです。

アダムとイブが知恵の実を食べて堕落したというのは、肉体に意識が留まり、個々の知恵によって価値観を持ち、破壊の方向で考えてしまうようになったということです。

 

私たちは肉体という限られた箱の中にエネルギーを留めている宇宙で唯一の存在であるので、それはそれは宇宙全体に存在するあらゆるエネルギー的存在の注目の的です。

しかも私たちは知恵の実を食べたという比喩で表されたように「脳」という組織をものすごく進化させて、想像の世界を宇宙くらいの容量に広げてきました。
そのスペースは私たち本体とは別にエネルギー的存在の居場所にもなりうるので、物凄い量のエネルギーの影響を受けまくって生活している状況です。

つまり、本来の神なるエネルギーを見失い、自分が何者であるかもわからないくらいの別のエネルギーに影響されてきたので、それらのエネルギーによって肉体も変化してきました。
その結果、ますます肉体であったり、物質を重視するようになったのです。

 

肉体はこの世界にとどまる条件なのでとても大切ですが、それは朽ちていく破壊のエネルギー側に存在することになります。

破壊を食い止めてバランスを保つためには、今まで説明してきた神のエネルギーを意識し、創造の世界へのベクトルを高めていく必要があるのです。

決して、機械の体を手にすることや、脳を維持する技術を発展させること、宇宙空間への肉体的移動、仮想空間への移行を重んじてはいけないと思います。それらは全て物質的だからです。神の創造エネルギーから離れていく行為に他なりません。

 

ちなみに、不安、恐怖、足りない感を感じてしまうような情報にも注意が必要です。

今後はますます地震などの災害についての情報が流れてくるはずですが、それもある意味ビジネスであり、誘導であり、洗脳だと思っています。そう簡単に地震は起きません。気象も毎年同じように起こるのがリズムであり、バランスなのです。

そうではないのなら、それは人為的だと疑う余地があるのです。

災害などの不幸に意識を合わせ、そうならないようにとか、なった時の対処とか、

起こってほしくないといった破壊的なエネルギーを意識するだけで、そちらの集合エネルギーがどんどん増大し、結果それが事実と化していきます。

神のエネルギーによってではなく、私たちが神のエネルギーから離れたことによるバランスの崩壊によって起こることなので、自爆となるのです。

 

そこで私たちは責任を持って、創造のエネルギーを増やしていきましょう。

大丈夫、足りている、満ちている、そう思いましょう。

脳の思考の領域を減らしていく努力をしましょう。

その努力こそが「神を愛する」ってことのはずです。

幸せの一歩なのです。

上から目線でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

割礼しなくてもいいのですか?

私は誤解していました。

イエス・キリストを信仰し、キリスト教徒になるには

「割礼」をしなくてはならないのだと。

 

Wikipediaより〜

割礼(かつれい)とは、男性もしくは女性の一部を切開あるいは切除(場合によっては性器口を封鎖)する外科的施術を指す。割礼の習慣は、ユダヤ教徒イスラーム教徒、赤道沿いのアフリカ原住民などの間に見られる。割礼の歴史は古く、紀元前の資料にまで遡る。割礼は単に個人に行われる習慣ではなく、通過儀礼・集団規範と関連するケースが多い[1]

女性器切除(female circumcision)を『女子割礼』と称す事がある。男子の割礼は包皮を切除、場合によっては尿道や一部睾丸の切除をする。女性器切除は場合によって、クリトリスや小陰唇、大陰唇を切除する。 一部の人権団体からは悪習と批判されている風習でもある。

アフリカの女性がこの割礼に苦しまれていることは知っていましたが、

男性は未だに続いていると思ってました。

それは私にとって恐ろしいことでした。

そんなことさせる宗教は全て悪だと思っていました。

だからユダヤ教キリスト教も悪だと思っていました。

 

しかし、聖書を読んでいると

ガラテヤの信徒への手紙 5 キリスト者への自由というところで

「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。

もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。

割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。

そういう人は律法全体を行う義務があるのです。

律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、

キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。

わたしたちは義とされた者の希望が実現することを、”霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、

愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

と書かれていました。

 

つまり、割礼なんてもってのほかってことですね。

割礼のような律法は人間が堕落によって動物以下の存在に成り下がっていた頃、キリスト・イエスの誕生までは必要だったようですが、

キリスト・イエスが死によって、神との関係を父と子まで引き上げられたことによって、戒めである「律法」から愛の「信仰」にレベルアップしていただいたのだから、

それを今更実行するなんて、イエスの死を無意味なことにするつもりか!!!とパウロの怒りを感じました。

 

こういうことなら、もっと早く聖書を読むべきでした。。。

そしてまた、ホッとしました。

今の私はキリスト教徒ではありませんが、イエスが罪を贖ってくださったおかげで

私たちは悪魔に命を取られることなく生きている。ってことは理解できています。

だから決してイエスの死を蔑ろにするようなことはしたくありません。

もちろんヤハウェを失望させるようなことは絶対したくありません。

そんな心境になり信仰できるようになったからこそ、ようやく理解できたのでしょう。

 

ああ私はなんて次元が低いのだろう。。

まだまだ祈りも信仰も足りません。

「男尊女卑」と言う名の罠

「男尊女卑」とはまさしく悪魔が作った言葉に違いない。

Wikipediaによると、

女性差別(じょせいさべつ)とは、女性に対する性差別である。男尊女卑(だんそんじょひ)とも呼ばれる。対義語は男性差別という。」

しかも「日本は男女格差が世界で最も大きい国」らしい。

 

〜ここからは私の見解〜

それはそのはず。

日本人は最も男女差を大切にしてきた国だからである。

そう聞くと開き直りに聞こえるかもしれませんが、以下大切なことなので証をします。

 

男尊女卑はもちろんとても嫌なエネルギーを持った言葉です。
しかし、男女差は絶対あるのです。
それは肉体的なものや力関係ではありません。

男が力仕事、男が働き、女が家事育児で、専業主婦なんてことは自然の流れであり、

全てが自然の流れならば、それを拒絶したり、否定したり、逆転したりすることはあり得ないのです。

 

それはなぜか。たとえば一例として

創造主は愛を顕現し、肉体を使って味わうために人間を造ったわけです。

エロスではなく無償の愛です。

愛とは何かについては私はまだよくわかりませんが、少なくとも快楽、享楽的なものより遥かに次元の高いものでしょう。永遠無限のエネルギーだと私は想像しています。

その愛を人間を通して、万物に伝えたいのです。

動植物から癒されエネルギーを奪うのではなく、

神から注がれたエネルギーの余剰分を万物の長として動植物や微生物に与え、世界を愛で満たしたいのです。

 

そこで最初に男を造ったのです。

たぶん昆虫や植物にその痕跡があるように、最初は雌雄がなく、時期によって性を変えたり、両性だったりしたでしょうが、

一つで完結するより、与えると受け取るという関係性が良いとし、男女、雌雄に分けたのだと思います。

 

いずれにしても、女性は後から子宮を携えて誕生したはずです。

男性は創造主から注がれる愛エネルギーを、女性に分け与え流すことが本来の、そして自然の働きなのです。

それはもちろんフリーセックスではありません。

創造主のエネルギーは男性から女性に流されると方向性が決められているということなのです。

 

しかしながら過去の私を含めて世の中の男性は間違って解釈してしまいました。

悪魔の仕業です。

悪魔は私たちが創造主から愛されること、無限のエネルギーが流れることが許せないのです。

だから、それを阻止すべく、男尊女卑といった思考と行動を作ったのでしょう。

 

そしてそんなこともわからず、私たち人間は悪魔の手先と化し、未だ創造主から直接愛をいただくことができないでいます。唯一それが許されたのがアダムとイエスだったのでしょう。アダムは失敗してしまいましたが、その後イエスが霊的に成就し、イエスからであればその愛を受け取ることができるようになりました。
だからイエスを信じないものは愛が分からないのです。だから、間違ったことばかりを繰り返しているのです。

だから、イエスから遠い日本人は間違った方向性で男女格差が大きいのです。

本来の日本人は、悪魔からも遠い存在でアダムやイザナギ以前は創造主に一番近い人間の暮らす国だったに違いありませんが、

たくさんの移民によって堕落的な思想が浸透し、ついには世界で最も堕落してしまったのだと思います。

 

他国はよくわかりませんが、少なくとも男性は傲慢になり、女性を軽視してしまうわけですし、

女性は本能的にそれを知っていたとしても、男性が気づかないために自らが男性的になろうとしています。ジェンダーもそういった関係があるのかもしれません。

 

というわけで、私たち男性はまず精神的に男性にならなければなりません。肉体的にも男性を強化しなければなりません。

そのためには少しでも純潔になり、創造主の意図を知り、イエスのようにヤハウェを信仰していくことが急務なのです。

 

そうすればある時を境に、自分が意図しなくてもエネルギーを受け取り、そのまま女性に流せるようになるのです。

そしてようやく男性として、女性としてそれぞれの役割を果たして生きていけるのです。

男性が創造主から無限の愛エネルギーを受け取れるようになったらと、想像してみてください。

当然男性は女性を大切していることでしょう。

だからもし、女性差別を受けていると感じるなら、それは方向が間違っていると感じていても最終手段として、その男性が創造主の元に帰れるようサポートしてあげてください。

それが結局この世の中を変える一番の近道だと思います。

次の企み

もし仮に、

これから先、宣教と言われるような記事を書いていくにしても

自分で作った作品をサイトを利用してお金と交換することに決めたとしても

そういったことの実現が例えば10年後だとしたら、

投稿しつつ貯め込んだ文章やら写真は膨大なデータになり、

公開していくこと事態それなりの制約があるだろう。

 

それ以前に私は与えられたギフトを最高に活かし生きていきたいし、

悪魔に邪魔されることなく、ヤハウェを愛しながら自由に振る舞っていきたい。

 

となると、やはり

レンタルサーバーを契約して、独自ドメインも取得して、

wordpressか何かでHPを立ち上げていくことがbetterなのだろう。。

 

この一年独学で学び、つい最近第二種電気工事士をGETしたけれど、次は数ヶ月取り組んでみるかな。

 

まずは改めて、、そうだ(仮想の)会社名を考えてみることにしよう。

「私は愛されていない」という感情こそが『悪魔の罠』です。

大天使ミカエルの想像図は鎧を着て剣を持っているところから想像すると、人間が生まれる前からヤハウェと天使は何者かと戦っていたのでしょう。

 

それが肉体をもつ存在だったのか、霊的な存在だったのかは分かりませんし、

そもそも外的な存在だったか、心の中に必ず潜んでいる内的な存在だったのかも分かりませんが、

戦い、闘い、いづれの方向であっても悪魔が存在していたと私は思います。

ヤハウェや天使にとってそれはとても厄介な存在であったはずです。

 

ヤハウェは人類に希望を託すため、良しと認める時期が来るまで人類をとてもとても大切に育てたのですが、その様子を見て図らずも天使長であったルシエルが妬みや嫉妬といった感情を持ってしまいました。
ヤハウェから心が離れ、自分に対するヤハウェの愛を見失ってしまったのです。
その結果、ルシエルはルシファー、いわゆる自身が悪魔になってしまったのだと理解しています。

 

アダムは人類始祖とされていますが、誕生が推定6000年前だったことから実は人類始祖ではなく、それまで腐敗していた悪の世を立て直すために生まれた、いわばナザレのイエスのような救世主の一人だったようです。

ルシファーにとってヤハウェに愛されていたアダムは、妬みや嫉妬の対象でした。

現代にも脈々と息づいているその感情の発端は紛れもなく悪魔の感情なのです。

直接は無理だったのでしょう。ルシファーはイブを誘惑し、イブからアダムを堕落させました。一倍弱いところを狙ったわけです。

ルシファーにとってヤハウェに愛される存在は全て敵なのです。許せない存在なのです。

それはまさにヤハウェに対する当てつけなのです。

悪魔と契りを結び堕落したイブ、イブに誘惑され悪魔に心を許したアダム。

その二人から生まれた子どもたちは悪魔の子でした。

つまり私たちはヤハウェの子ではなく、元々は悪魔の子なのです。

だからこそ、私たちは悪魔との縁を絶ち、ヤハウェの元に帰らなければならない。

それが今現在の私たちの課題です。

 

私は間違っていました。

神様は生贄を要求していたから、アベルの捧げ物を選んだのだと。

しかし、カインはヤハウェに愛されていたアベルと手を取り合って、

互いに一所懸命育てた最良なものを協力して捧げることが求められていたのです。

それが「長」なる責任でもあったのでしょう。

ヤハウェはカインを試されたのです。

ルシファーがルシエルに戻るための条件は、堕落した人間がルシファーを超えてヤハウェに戻ってくることでした。

わざとアベルを溺愛し、ルシエルの時と同じ状況を作り、カインがそれを見ても気にせずヤハウェへの愛を信じ続ければ、ルシファーを屈服させることができるというわけです。

そうすれば金輪際、ルシファーは人間を誘惑することができなくなります。

しかし、残念ながらカインはヤハウェの愛を見失い、悪魔の世界に落ちてしまいます。

それが本来の「死」です。

人類はまたしてもヤハウェを裏切ってしまいました。

エスが誕生するまでその後4000年近く、人類は悪魔に育てられてきました。

悪魔の社会で心清く、全く汚れない青年が育ち、悪魔の誘惑期間40日を無事クリアーし救世主としてヤハウェの願いを実現できる人が誕生するまで4000年の歳月が必要だったということです。

私たちは日々神様というする存在に対し手を合わせています。

しかし、イエス以外にルシファーに勝った人はいません。

「イエスの御名によって」でなければ、本来前に進めないのです。

ただし、イエスの生涯はあまりに短すぎました。

人間は霊と肉の存在ですが、イエスに時間がなく図らずも霊しか救えませんでした。

肉、つまり物質的にはまだ救われていないのです。

だから、未だイエスは十字架から下されないんですね。

 

日本にも世界にも幾多の神なる存在があります。

しかし、ヤハウェという名はなかなか耳にすることがありません。

悪魔の世界ですから、一番人間につながってほしくない存在なのです。

逆に私たちは今こそそんな遠い存在となってしまったヤハウェを信仰し、

ヤハウェへのお詫びと共に「私はヤハウェに愛されている」と信仰することが必要なのです。