私は誤解していました。
「割礼」をしなくてはならないのだと。
〜Wikipediaより〜
割礼(かつれい)とは、男性もしくは女性の一部を切開あるいは切除(場合によっては性器口を封鎖)する外科的施術を指す。割礼の習慣は、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、赤道沿いのアフリカ原住民などの間に見られる。割礼の歴史は古く、紀元前の資料にまで遡る。割礼は単に個人に行われる習慣ではなく、通過儀礼・集団規範と関連するケースが多い[1]。
女性器切除(female circumcision)を『女子割礼』と称す事がある。男子の割礼は包皮を切除、場合によっては尿道や一部睾丸の切除をする。女性器切除は場合によって、クリトリスや小陰唇、大陰唇を切除する。 一部の人権団体からは悪習と批判されている風習でもある。
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アフリカの女性がこの割礼に苦しまれていることは知っていましたが、
男性は未だに続いていると思ってました。
それは私にとって恐ろしいことでした。
そんなことさせる宗教は全て悪だと思っていました。
しかし、聖書を読んでいると
ガラテヤの信徒への手紙 5 キリスト者への自由というところで
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。
もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。
そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、
キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
わたしたちは義とされた者の希望が実現することを、”霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、
愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
と書かれていました。
つまり、割礼なんてもってのほかってことですね。
割礼のような律法は人間が堕落によって動物以下の存在に成り下がっていた頃、キリスト・イエスの誕生までは必要だったようですが、
キリスト・イエスが死によって、神との関係を父と子まで引き上げられたことによって、戒めである「律法」から愛の「信仰」にレベルアップしていただいたのだから、
それを今更実行するなんて、イエスの死を無意味なことにするつもりか!!!とパウロの怒りを感じました。
こういうことなら、もっと早く聖書を読むべきでした。。。
そしてまた、ホッとしました。
今の私はキリスト教徒ではありませんが、イエスが罪を贖ってくださったおかげで
私たちは悪魔に命を取られることなく生きている。ってことは理解できています。
だから決してイエスの死を蔑ろにするようなことはしたくありません。
もちろんヤハウェを失望させるようなことは絶対したくありません。
そんな心境になり信仰できるようになったからこそ、ようやく理解できたのでしょう。
ああ私はなんて次元が低いのだろう。。
まだまだ祈りも信仰も足りません。