私たちが創造主の存在を感じるのは至難の技です。
自然界を強調したり、崇めたり、畏れたりする傾向がありますが、
自然界は創造主によって創造されたものですから創造主ではありません。
太陽や、月や、海や、川や、木や、草にいくら手を合わせても、
創造主に触れているわけではないのです。
それらとプラスチックや金属や石を比較するのも意味がありません。
全て創造主が創造したものですし、素材は全て同じだからです。
結局のところ、炭素、水素、窒素、、、物質なのです。
そしてそういった物質を創造主と同等にすることを、旧約聖書では「偶像」といっています。
神社、寺、仏像、お守り、それらはまさに偶像ですが、
それだけでなく、太陽、月、海、山、川、木、石、金属、、、
それらを神とする行為も偶像崇拝です。
人間と自然界は同じ世界の産物です。
ただ、旧約聖書の中では、人間は創造主をかたどって造られた「創造をもたらす存在」として万物の長とされていますので、自然界をコントロールする存在として大切にされてきたという経緯があります。
大切にされてきたということはとても深い話で、数人残してその他全て絶滅といったことも、数人は残されたのですから大切にされてきたと言えるのです。
では、私たちは何を崇めればいいのか。。。
今まで私たちが手を合わせてきたものや存在が偶像崇拝なら、何が神なのか。。
神という存在を拠り所にしたい私たちは常にそう考えてしまいがちです。
そこで、多くの方が迷い、もがき、苦しんでしまいます。
しかし私たちが創造主に触れるまでにしておかなくてはならないこと。
それは「悪魔に気づくこと」なのです。
悪魔を具体的に語るのは別の機会として、とりあえず創造主に反抗している存在であり、私たちを試し、堕落させ、それを告発する存在だという認識が必要です。
そういう認識をすれば自ずからどうすればいいか気づけるはずです。
私たちは図らずも悪魔に育てられてきました。
周りは全て悪魔なのです。
それを造ったのはもちろん創造主なのですが、それを運用しているのが悪魔なのです。
今、あなたの周りにあるもの、頭によぎるもの、その全てが悪魔の誘惑であり、試しです。
そこに気づいたとき、一瞬クラクラしますが、心に落ち着きが訪れるはずです。
自分が今存在していることに驚くのです。
モーセやイエスでさえ40日間断食しつつ、悪魔の誘惑と闘いました。
もちろんそれだけでは終わりません。全てが悪魔の世界ですから、自分が悪魔の誘惑に勝てたとしても、自分の目の前にいる人たちは全て悪魔の手下として忠誠を誓ったままです。
自分が悪魔の誘惑に勝った時点で四面楚歌に陥るのです。
残酷な話です。親は当然のことながら、妻子があれば妻子も、友人も、恩師も、悪魔に気づいていない人たちは全て悪魔の子と気づくのです。
だから、そこからの人生が一番苦しい。
巷では、神の存在を知った者として、キラキラ自分を宣伝したり、チヤホヤされてる姿を見ますが、その方は未だ悪魔の手下(本人は気づいていません)です。
何かの技を使って体を癒すような行為もほぼ、人を悪魔の世界にとどめておくための能力を授かっているだけ。
世の中をより良くしたい、人を助けたい、そういった一見素晴らしいとされる思想や行為も然りです。
そう、それに気づいたとき、絶望が訪れます。
でも、それでいいのです。
悪魔の存在に気づき、絶望する。
自分はなんて残酷なことをしてきたのか、なんて愚かだったのか、
どれだけの命を奪ってきたのか、なぜそれを良しとしてきたのか、
最悪だ、最低だ、、、、
それでいいのです。
悪魔に気づいてください。
目をそらさないでください。
祈っても無駄です。祈ろうが祈らまいが同じことです。
祈るくらいなら、気づいて、気づいた自分を褒めてください。
私たちはいかなる時も、いつなんどきも創造主の懐の中にいるのですから。